2014年6月21日土曜日

第3章 NPO所属時代 2008年2009年2010年

NPO所属時代。2008年2009年2010年は、自分にとって、思い出したくない苦しい時代だった。
今まで、考えたくない気持ちでいっぱいだった。

結論としては、1期生、2期生、3期生と100人近くに日本語を教え、40人くらい日本に研修生として送り出した。自分が送り出した研修生が日本の受入農家との間で、トラブルが続出した。
通訳兼、日本の農家さんに謝りに、3日間だけ日本に帰ったりもした。
花の事業は、病気が出て失敗してしまった。自分に力量がないということで、後任の方がやってきた。また、片山さんもバンメトートに合流した。研修生に日本語を教えるのも、4期生からは、片山さんの大学の同級生の方に交代した。自分は、もっぱら、政府の人達との交渉や通訳が仕事になった。今まで、日本語教室しかなかったので、農業研修もできるように、政府から、土地を借りて、建っていた家を改築して、2009年7月に有機農業研修センターが稼動し始めた。
もういい加減に日本に帰った方がいいのかなあという気持ちもあり、ただ、自分が日本語を教えた子達がまだ、日本で研修を受けている中で、あの子らが帰ってくるまでは、責任があるような気もした。JICAの草の根資金に申請しているという仕事も残っていたので、それが取れるまでは、がんばろうと思った。
少しづつ、日本から自分が日本語を教えた子達が帰ってくるようになった。しかし、結局誰も、有機農業を始めなかった。一部は、家族の農業を手伝うために故郷に帰り、一部は、せっかく日本語を覚えたのでと、ホーチミン市の大学に行った。ぜんぜん、違う仕事に就く子もいる。
5年間何のために、がんばって来たのかわからなくなった。
最後は、片山さんと喧嘩になった。
「もういいです。自分がやります。」と言って、喧嘩別れするような形になった。
JICAへの草の根試験の申請は、引き続き最後までやるけれど、
NPOの活動自体は、2010年6月で、自分は関わらなくなった。

つづく

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