2014年6月20日金曜日

第3章 NPO 2005年

NPOに所属していた期間は、最初は、1年だけのつもりが、結局、2005年3月から2010年6月までの5年間続いた。そのとき思い出は有りすぎて、うまく書く自信がないので、印象に残っているエピソードを少しづつ書いていこうと思う。

許可もなければ、教室も、生徒もいない。まずは、ベトナムの生活に慣れるということ、許可の申請をしながら、ベトナム語を勉強しなさい。ということが、自分に与えられた指示だった。

最初から、田舎のバンメトート市はきついので、ホーチミン市から北へ40kmのBINH DUONG省の工場に居候することになった。TRUNGさんという当時65歳くらいのベトナム人の社長が経営する洗剤の工場だ。

TRUNGさんは、英語、中国語、フランス語、もちろん、ベトナム語を話すことができる語学の天才で、元々はサイゴン大学の哲学の教授だったとのこと。南部が戦争に負けて、いろいろと苦労したのだが、そういった苦労が全く見えないくらい明るく朗らかな性格。

最初に、ワーカーの人たちの前で、TRUNGさんに紹介された。
「塩川には、ここでベトナム語を勉強させる。ベトナム語は南部のことばを勉強する。」
塩川自己紹介しろ。と促された。
「私は塩川です。」とベトナム語で言ったつもりが、全く通じない。
見かねた、TRUNGさんが、
「トイ コー ムイ ボー」と言えと言っているようなので、
「トイ コー ムイ ボー」と真似をして言うと、ワーカーの人たちが爆笑した。

どうやら、「私には奥さんが10人いる。」という意味だったらしい。

つづく。

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