2014年6月21日土曜日

第3章 NPO所属時代 2008年2009年2010年

NPO所属時代。2008年2009年2010年は、自分にとって、思い出したくない苦しい時代だった。
今まで、考えたくない気持ちでいっぱいだった。

結論としては、1期生、2期生、3期生と100人近くに日本語を教え、40人くらい日本に研修生として送り出した。自分が送り出した研修生が日本の受入農家との間で、トラブルが続出した。
通訳兼、日本の農家さんに謝りに、3日間だけ日本に帰ったりもした。
花の事業は、病気が出て失敗してしまった。自分に力量がないということで、後任の方がやってきた。また、片山さんもバンメトートに合流した。研修生に日本語を教えるのも、4期生からは、片山さんの大学の同級生の方に交代した。自分は、もっぱら、政府の人達との交渉や通訳が仕事になった。今まで、日本語教室しかなかったので、農業研修もできるように、政府から、土地を借りて、建っていた家を改築して、2009年7月に有機農業研修センターが稼動し始めた。
もういい加減に日本に帰った方がいいのかなあという気持ちもあり、ただ、自分が日本語を教えた子達がまだ、日本で研修を受けている中で、あの子らが帰ってくるまでは、責任があるような気もした。JICAの草の根資金に申請しているという仕事も残っていたので、それが取れるまでは、がんばろうと思った。
少しづつ、日本から自分が日本語を教えた子達が帰ってくるようになった。しかし、結局誰も、有機農業を始めなかった。一部は、家族の農業を手伝うために故郷に帰り、一部は、せっかく日本語を覚えたのでと、ホーチミン市の大学に行った。ぜんぜん、違う仕事に就く子もいる。
5年間何のために、がんばって来たのかわからなくなった。
最後は、片山さんと喧嘩になった。
「もういいです。自分がやります。」と言って、喧嘩別れするような形になった。
JICAへの草の根試験の申請は、引き続き最後までやるけれど、
NPOの活動自体は、2010年6月で、自分は関わらなくなった。

つづく

2014年6月20日金曜日

第3章 NPO所属時代 2007年

片山さんからは、いろんなことを教わった。
産直運動の話や、
「農家の目線になれ。」
「交渉力が大切だ。」
「消費者と生産者との交流から安心は醸成される。」
「正義を貫こうと思えば、したたかにならんとイカン!」
「正しいことを言うことが正しいとは限らない。」
など。

生協の人達との会議で、
「国産、国産と言うけれど、中国やフィリピン、ベトナムの研修生が労働の担い手になっちょるやないか。これで、国産と胸を張って言えるか。ワシらがベトナムでちゃんとしたものをつくるから、買ってくれ!」と説得したという話。
「ワシらは、安い中国の農産物に苦しめられ、中国の農家を敵のように思っているけれど、農家は、どこの国に行っても貧しい。真ん中で搾取している人間がおって、こいつらが悪い。」
「国家を超えて、農家が連帯する時代だ!」
そういう話を聞くと胸が躍る想いになる。

ある時、確か酒も入っていたと思うけれど、片山さんが、
「塩川。社長の仕事は何かわかるか?」
「え、・・・経営することですか。・・・」とおそるおそるこたえると、

「夢を語ることじゃ!」と目をキラキラさせながら言う。
もう60を越えた人間が、20代の若造に、
「夢を語ることじゃ!」と言う。
自分の方が恥ずかしくなってしまった。

最初の頃は、バンメトート市には、自分1人しか責任者がいなかった。
片山さんが、2,3ヶ月に一度や、半月に1度、必要に応じて、ベトナムにやってくる。
親分である片山さんが来るとやっぱり自分も嬉しくなる。

片山さんを空港まで迎えに行ったとき。
愛媛県の片山さんの農場で、NPO法人ニュースタートと協力して、ひきこもりの子を引き受けたとのこと。
「今、そいつらと共同生活しよるんじゃ。1人窃盗癖のあるやつがおって、1人タバコを辞めれないやつがおって、あるとき窃盗癖のあるやつが、タバコを盗んだんじゃ。そしたら、タバコがないタバコがないっておろおろし出してな。」
「今度、そいつらも、ベトナム連れてくるから、塩川頼むぞ。」
(・・・勘弁してくれ。1人でも大変やのに、そんな人連れてこられたら俺死んでしまう。)
普段、タバコなんか吸わないのに、そのときばかりは、タバコに火をつけて、やさぐれた。

つづく。

第3章 NPO所属時代

日本語の教室を借り、生徒も集め、日本語教室も始まった。
花の事業も、竹のビニルハウスを建て、試験栽培も始まった。
待つだけの日々から、毎日忙しい日々となった。

文化の壁、ことばの壁もあり、一喜一憂の日々を過ごす。
農家さんと仲良くなったり、公安の人達とお酒を呑んだり、政府関係の人たちへの書類を提出したり、ありとあらゆることに忙殺されていたと思う。

NPOから、毎月400USDを支給されていた。これは、活動費+生活費として使い、残った分は貯金していた。活動が忙しくなるに連れ、活動費の方が増えて来て、確か、もうお金がほとんど残っていなかったことかと思う。

銀行に言って、窓口でお金を下ろしていたときに、
顔見知りの受付の女の子が、
「どうしたの?」と聞いてきた。
「お金がなくて、悲しい。」と答えると、
「2本の手があれば、また、働けるよ。働けば、また、お金が貯まるわよ!」
って励ましてくれた。
ベトナム人の強さを感じた。

それからは、お金がなくて苦しいときは、自分の手を見ることにしている。

つづく。

第3章 NPO所属時代 2006年

ダクラック省政府の許可がいつまで経っても下りない。
中央政府の許可が下りたんやから、省政府もすぐやと思っていたけれど、
小栗さん曰く
「王権も村の中までは入ってこないということばがベトナムにはある。」という。

その頃、某大手花の会社が、ベトナムで花の事業をしたいとのことで、
片山さんのプロジェクトに興味を持って話があった。
片山さんの考えでは、日本の有機農家、関係会社にベトナムの農家の子弟を研修生として受け入れ、農家で一年間働いた後、ベトナムに帰国。帰国後研修生とともに、事業を構築するというもの。

なかなか、NPOのプロジェクトの方が始まらないので、
先に、帰った後の事業をつくるところから開始することになった。

片山さんと話し合う。
「自分は、花の事業は嫌です。有機農業を広めるということに賛同して、このプロジェクトに参加したのに、花の事業は農薬を使うから嫌だ。」と頑なな自分。
「お前は、ものごとを単純化するからいけんのんじゃ!ものごとは、プラスもあり、マイナスもあり、その両方を見ることが大切だ。この花の技術をここに導入すれば、ビニルハウスのつくり方や、苗つくりの技術がここに根付く。これは、有機農業にも応用できるし、ここの農業の発展にとって、プラスになるとワシはみちょる。」と片山さん。
農業を経験したことのない自分が、経験もせずに反対することも、おかしなことだし、
有機農業の第一人者の片山さんがそういうんやからと、自分も承知した。

花の会社をダクラック省につくることを申請した。
面白いもので、花の会社の話が動き始めると、ダクラック省の人民委員会も自分たちの本気度を確認したのか、NPOの許可も下りた。

確か、2006年の6月頃だったと思う。結局、1年間は、日本語を教えないまま終わった。

つづく

第3章 NPO所属時代 2005年12月 2006年1月6日 

そうこうしているうちに、ダクラック省の科学技術協会の副会長 TRIさんから、もうすぐ、許可が下りるとの連絡を受けた。自分がベトナムに来てから、6ヶ月経っていた。

自分もいよいよ、バンメトート市に引っ越すことになった。
TRUNGさんが、従業員といっしょに、マイクロバスを借り切って、社員旅行とばかりに、バンメトートまで見送ってくれた。

お別れをして、TRUNGさんと、社員の人たちは、マイクロバスに乗って、また、BINH DUONG省に帰った。後で、ワーカーの子に聞いたのだけれど、TRUNGさんは泣いていたらしい。

バンメトート市では、副会長のTRIさんのうちにお世話になった。
バンメトートでの暮らしにも、少しづつ慣れて来た頃、ついに、2006年1月6日づけで、
ハノイの中央政府から、外国人のためのNGO活動の許可が下りた。

ようやく、これで、教室を開き、日本語ボランティアが開始できると喜んだ。
ところが、今度は、ダクラック省政府の許可がいるとのこと。

つづく

第3章 2005年 NPO所属 小栗さん

小栗さんは、シータスという印刷会社を経営するおじいさんだ。
元々、学生運動の過激派のブントというセクトに所属していたとのこと。
ベトナムには、当時、ベトナム戦争反対運動に青春を燃やしていた闘士が、
我が青春のベトナムよとばかりにやってくる。
片山さんとも付き合いが長く、TRUNGさんとも長い付き合いとのことで、BINH DUONG省のTRUNGさんの工場によく訪ねて来た。
いろんな指示を受け、みつろうを使い、石鹸やキャンドルをつくったり、らっきょうを乾燥させたり、海ぶどうの調査や、ニームの木を探すことや、小栗さんが興味を持つ、ありとあらゆることを手伝った。ワシのパンツを洗え!と言われたが、流石にそれは、断った。
ベトナム語も満足にまだ、使えなかった時だけれど、辞書を片手に通訳の真似事もさせてもらったり、とにかく、世間知らずの学生である自分をスパルタで教育してくれた。
「人間は、個人対個人で平等だ。」と主張する自分に徹底して「立場」というものを教えてくれた。

よく罵声を浴びせられた。
「拝金主義になるな!」「突っ張るな!」「どうしようもねえな!てめえは!」
ベトナムのあちこちに連れて行ってもらうことは、とても嬉しかったが、小栗さんが来るたびに、口内炎ができた。最初のうちは、3つできていたのが、だんだん、2つ、1つと症状が軽くなっていった。
最後は、口内炎もできなくなった。

ある晩、ホーチミン市の高級ホテルの部屋で、高級ウイスキーを小栗さんが飲んでいて、自分も頂いていた。後、ベトナムシータスの社長、笠戸さんもいっしょだった。
テレビに南の島と牛が映っていた。

小栗さんが、何気なく
「この牛は泳いで島を渡るんだよ。」とつぶやいた。
「また、小栗さん、いいかげんなことを」と口にだしてしまった。
「本当だ。」
「いや、自分は信じれないですね。」と酒が入っていたのもあり、余計なことをいったとたん。
「ワシの言うことが信じられないのか!!」と小栗さんの逆鱗に触れた。
「そこに立て!」と恫喝され、殴りかかられた。
びっくりして、左手で払いのけた。
再度、殴りかかられそうなところを。笠戸さんが止めてくれた。

なぜか、涙がぽろぽろ出てきて。トイレに言って、顔を洗って来た。
少し、時間が経つと、小栗さんも冷静になって。自分もだまっていて。
そのまま、笠戸さんが帰った。

その後、何を話したかは覚えていないけれど、ぽつぽつと小栗さんが諭すようなことを言って、
自分が人生やら、なにやらわからないことを話していたと思う。
何も知らない二十歳の若造に、真正面から応えてくれる人はとても珍しいと思う。

後に、笠戸さんから、「泳いでいたよ。牛。」と教えてもらった。

つづく。





第3章 NPO所属 2005年

ベトナム語は、発音が命。
あいうえおの母音が11個ある上に、日本語にはない子音もあるし、
その上、声調記号が6個ある。
TRUNGさんの指導は、「発音をとにかくマスターしろ!言葉の意味を覚えるなど後回しだ。
発音さえマスターしておけば、ご飯を食べるときも、酒を呑むときも、テレビをみたり、カラオケに行くこともすべて、勉強になる。発音がだめなら、何年ベトナムに居ても、ベトナム語を話すことはできない。」とのことで、語学の天才であるTRUNGさんが言うのであるから、間違いないとTRUNGさんを信じて、毎日、発音を繰り返す日々。
日本人のいない場所で、日本語のない場所で、3ヶ月間ただ、発音の練習をしていたら。
3ヵ月後、熱が出て倒れた。

つづく。

第3章 NPO 2005年

NPOに所属していた期間は、最初は、1年だけのつもりが、結局、2005年3月から2010年6月までの5年間続いた。そのとき思い出は有りすぎて、うまく書く自信がないので、印象に残っているエピソードを少しづつ書いていこうと思う。

許可もなければ、教室も、生徒もいない。まずは、ベトナムの生活に慣れるということ、許可の申請をしながら、ベトナム語を勉強しなさい。ということが、自分に与えられた指示だった。

最初から、田舎のバンメトート市はきついので、ホーチミン市から北へ40kmのBINH DUONG省の工場に居候することになった。TRUNGさんという当時65歳くらいのベトナム人の社長が経営する洗剤の工場だ。

TRUNGさんは、英語、中国語、フランス語、もちろん、ベトナム語を話すことができる語学の天才で、元々はサイゴン大学の哲学の教授だったとのこと。南部が戦争に負けて、いろいろと苦労したのだが、そういった苦労が全く見えないくらい明るく朗らかな性格。

最初に、ワーカーの人たちの前で、TRUNGさんに紹介された。
「塩川には、ここでベトナム語を勉強させる。ベトナム語は南部のことばを勉強する。」
塩川自己紹介しろ。と促された。
「私は塩川です。」とベトナム語で言ったつもりが、全く通じない。
見かねた、TRUNGさんが、
「トイ コー ムイ ボー」と言えと言っているようなので、
「トイ コー ムイ ボー」と真似をして言うと、ワーカーの人たちが爆笑した。

どうやら、「私には奥さんが10人いる。」という意味だったらしい。

つづく。

3章 NPO 2005年 3月12日

忘れもしない。2005年3月12日。記念すべき日。

ホーチミン市に到着した。空気が熱い。また、ベトナムに戻ってきた。
有機農業をベトナムに広めるメンバーの農家さんや流通業者さんや、通訳の方々や、大学の先生や学生とともに、自分が日本語を教える予定のダクラック省バンメトート市へ。

地方政府の外郭団体、NPOのカウンターパートナーになるダクラック省科学技術協会にあいさつに行く。会議、会議の連続だった。
その中でわかったことは。NPO活動をするには、ハノイの中央政府の許可を取る必要があるとのこと。
要するに、日本語ボランティアをするのに、活動許可も、教室も、生徒もまだいないということがわかった。

つづく。

3章 NPO 2004年

愛媛県で有機のみかんを生産している会社、無茶々園の片山さんから届いたものだった。

実は、ベトナムに旅する前に、
現代社会と農業という中川聰七郎先生の講義に片山さんがゲストで来られ、講義が終わった後、中川先生から呑みにいくか?と誘われ、英語の補講があっただけれど、「はい!行きます!」とついて行った。
片山さんは、ベトナムで事業をしており、黒真珠のことや、ゴムの木からとれるはちみつのことや、いろいろとベトナムのことを教えてもらっていた。

その片山さんから、
「ベトナムで有機農業を広めるプロジェクトがあり、その日本語ボランティアに参加しませんか?」とメールにて、お誘いを受けた。

中川先生に相談に行くと、
「もし、行くなら休学していくしかない。」とのこと。

その日の夜、ベトナムでのバックパッカーの思い出などを思い出しながら、どうしようか、うんうん、考えていた。次の日、「行こう」と決めた。

つづく


3章 NPO 2004年

ベトナム、台湾から戻り、ようやく日本に戻ってきた。やっぱり日本は安心感がある。
バックパッカーではないけれど、その後、2004年9月に、青年洋上大学という県の企画に参加し、船で中国の天津、北京、蘇州、上海にも行って来た。
300人くらいの団体ツアーで行ったのだが、天津では、中国側の大歓迎が5000人くらいいて吃驚した。バスで移動していると同じ形の家ばかり並んでいるので、ああ、やっぱり共産主義の国なんだなって思ってみていると、川を橋で渡った先には、今度は新築のきれいな同じ形の家がずらっと並んでいた。ああ、そりゃ、昔建てたのと、最近建てたのでは、そりゃ違うよな。しかし、橋を越えるだけで、こんなに家が違うんやったら、不満も出るやろうなと思ったり。
天津から北京に行くのに、400kmあるって言うので、遠いですねって、バスガイドのお兄さんに言うと、「近いよ!ほら、地図見て、これだけしかないでしょ!!」て教えられる。
(それは、地図が大きいからでは。。。)と思うのだけれど。これが大陸の感覚なのかなって思った。
北京も、京都くらいの大きさなのかなと思っていたら、北京の街だけで、四国くらいの大きさがあり、
万里の長城に行っても、思うことだけれど、人の数も国土の広さも広すぎて、ぜんぜん、感覚がつかめなかった。

中国から戻り、夏休みも終わり、大学に戻ると一通のメールが届いていた。
「日本語ボランティアとして、ベトナムで働きませんか?」

つづく。

2章 バックパッカー THANKS ボブ 2004年

あたりは、すっかり真っ暗になっていた。
ボブのうちに入り、夕食を食べた。ビーフシチューとパンが出てきた。コーラを出されたので、
「私はコーラを飲まない。」と答えると、
「どうしてだ?」
「少年野球の高向コーチが、コーラを飲むの骨が溶けると言っていたから。」
(そういったつもりだけれど、英語でどこまで通じたかはわからない。)
「どうして、体に悪いんだ。俺は、小さい頃からずっとコーラを飲んでいるけれど、こんなにも健康だぜ!」と追い討ちをかけてきた。
「いや、あの、その」と、ごにょごにょ言っていると、
「ほら、これなら、健康的だろう。」っと
マルベリージュースをコップに注いでくれた。

飯を食わしてくれて、ゲスト用の個室に泊めてくれて、帰りには、タクシー代もくれた。
3000元を渡してもらって、タクシー代が確か、2000元だったと思う。1000元余り、そのお金で、友達へのお土産も買えた。

こんなにも親切にされて、英語で、お礼をきちんと言えたかどうか。
「本当はもっと話したかった。英語をもっと勉強します。」と言うと、ボブは喜んでいた。
ボブは、台北で英語の先生として働いていた。

台湾に着たら、ボブに今度はお礼をしようと思っていたけれど、ボブとはまだ会えていない。



2章 バックパッカー ボブんち 2004年

台湾に到着。空港でボブと並んで歩く。
「How old are you?」と聞かれ、
「20 years old」となんとか、片言で応える。
これは、こっちも聞き返した方がいいのかな。と考え
「How old are you?」と聞き返すと、
「HAHAHA older than you.」と返された。
ボブは、この答えが気に入ったのか、陽気に笑っていた。
これが本場のアメリカンジョークか!!と自分も衝撃を受けた。

台北空港から出て、タクシーで台北へ。
タクシーの中で、ボブが聞いてきた。
「君は神を信じるかい?」
この質問には、戸惑った。考えたこともないし、自分は、仏教なのかなんなのか、
しかして、完全に無神教でもないような気がするし、日本語でもうまく答えれないのに、
英語では、さらに難しい。もごもごしていると。
「僕は、神は信じないよ。死んだら土に還るだけさ。」とさらりとボブが言う。

「どうして、あなたは、私に親切にしてくれるんですか?」と問うと、
「それは、君が日本人だからだよ。もし、アメリカ人だったら、こんなことはしないよ。」と返答。
(日本人って、信用されてるんやなあ。)

そうこうしているうちに、タクシーは、ボブのうちに到着した。

つづく。

2章 バックパッカー 帰国? 2004年

なんとか、ホーチミン市の空港までこれた。良かった。これで、生きて帰れる。
しかし、友達にお土産を買うお金も残っていないなー。台湾では、トランジットだけやし、空港で寝れば大丈夫やろう。

空港のゲート前の待合所で、そんなことを考えながら本を読んでいたら、黒人のおっちゃんに声をかけられる。
「何を読んでいるだい?」
「ヒストリーブック」っと答え、その場の会話は、それで終わった。
後に、ああいうことになるとは、全く思っていなかった。

飛行機に乗り、ホーチミン市を飛び立つ。ベトナム、色々合ったけれど、これで無事に帰れるという安堵でいっぱいだった。

飛行機の中のトイレに行くと、ゲート前で声をかけてた黒人のおっちゃんがトイレ前の席に座っていた。
「あ、さっきの。」
しかも、隣の席が空いていた。
「座るかい?」と促され、ベトナムでの思い出を、片言の英語で説明することに。

ベトナムでの体験は、黒人のおっちゃん(アメリカ人で名前をボブという。)にはツボだったらしい。
「HAHAHA。君は冒険家だねえ。」
「ところで、台湾ではどこに泊まるんだい?」
「えっと、お金もないし、AIRPORTで。」と応えると。
「HAHAHA.。もし、良かったら、うちに来ないかい?空港よりは、快適だと思うぜ!」
(more comfortable than air port!)

つづく。

2章 バックパッカー 物乞い 2004年

泣きながら大学生の女の子が村山さんと何か言い争っている。
スタディーツアーに参加したメンバーだった。聞き耳を立てていると、
「物乞いも立派な職業だ。」という村山さんの意見にショックを受けたらしい。
参加者の女の子は、政府がちゃんと支援すべきだというような意見。

自分は、スタディーツアーに参加しなかったからわからなかったが、
キムキムは、相当、ショックを受けたらしい。

ほうれん荘で知り合った男性2人組みに誘われて、カンボジアに行くことになった。
ホーチミン市から、カンボジアの首都プノンペンまでバスの旅。途中、イミグレーションもゼスチャーでなんとか乗り越え、アメリカ人のパッカーさんに助けられたが、無事に、カンボジアとの国境を越える。そのとたん、道が悪くなる。国が変わるだけで、こんなにも違うのかと吃驚した。
川を渡るのに、フェリーに乗るが、フェリーを待つ間、物乞いの子供たちが窓へべったりへばりついてくる。農村では、甕に水を貯めて使っているようで、小さい子供は裸だった。

プノンペンまで来ると、流石に街なので、裸の子供はいなかった。プノンペンでも、ドミトリーの泊まる。ハッピーピザというのを、おっちゃんが薦めて来た。なにやら、マリファナ入りのピザとのこと。
ハイパーハッピーピザというのもあって、マリファナ増量とのこと。
興味もお金もないので、断った。いっしょに来た2人は、アンコールワットに旅立っていった。
カンボジアに来たということで、満足し、ホーチミン市に帰った。

2章 バックパッカー キムキム 2004年

数日して、キムキムとほうれん荘で会う。
「え、しおさん。なんでこんなところにいるんですか?」
「キムキム。よう着たなあ。」と、ベトナムど素人なのに、さも、ベテランのような感じで後輩に会う。
「キムキム。呑みに行こう!」っと近くの呑み屋に行く。

バドガールのようなセクシーな服を来たお姉さんがビールを注いでくれるお店に入った。
普通の呑み屋さんだけれど、ベトナムでは、なぜか、ビールはそういった人が売って、どうも、売った分だけ収入になるらしい。

ビールを注いでくれたお姉さんに。
「カモン」って言うと、
キムキムが変な目で自分を見ている。
(し、しおさんって、そういう人だったのか!?)
(ち、っちがうんだ、キムキム。)
「カモンっていうのは、ベトナム語でありがとうって言う意味で。」って説明。
(漢字で書くと「御(カム)恩(オン)」らしい。)

この一件で、キムキムは、カモンというベトナム語を覚えた。

つづく。

2章 バックパッカー 村山さん 2004年

フォトジャーナリスト村山さんは、ベトナム戦争後もずーっとベトナムを追いかけていて、エイズ患者やべとちゃん、どくちゃん、障害者、廃棄物収集所の中で暮らす人々、ストリートチルドレンなど、ベトナムの社会問題に焦点を充てて、取材を続けている。

話をしていると、大学生のスタディーツアーを行うらしく、その参加者の中に鳥取環境大学の学生もいるという。木村(キムキム)という自分も知っている後輩だった。

「村山さん。スタディーツアーってどういうことをするんですか?」と質問すると、
「ほないこか。」っとコテコテの関西弁。

「あれ見てみ。」指をさした方向を見ると。信号機があった。
「日本の信号機やで。」
「ほんまや!よくみるといろんな信号機があるんやなあ。」

次に行った場所で、また、村山さんが立ち止まり、バス停の腰掛の裏を指差した。
「ん?」注射針が落ちている。
「ヘロインや。」
!!!!?(ま。マジか!!!??ええ?)

今まで、普通に歩いて通り過ぎている場所に、そんなものが。
なんか、2週間居て、ベトナムを知ったような気がしてたけれど、ぜんぜん、何も見ていないのと同じだった。

つづく。

2章 バックパッカー ダナン ホーチミン市 2004年8月 

ダナンに到着。できるだけ安いホテルにチェックインして、次にホーチミン市に出発する汽車の時間まであまり動かないようにする。このときは、バインミーというフランスパンのサンドイッチばかり食べていた。安い上に、ハムと野菜とパンなので、栄養バランスもいいだろうとの考えで。

ちなみに、当時、バインミーは、ハノイで3000VND 、ダナンで2000VND、ホーチミン市で4000VNDだった。バインミーの値段で、だいたい都市の発展度がわかるような気がする。

3日ほど滞在し、ホーチミン市へ。

ホーチミン市では、VUI BIEN通りにあるほうれん荘という、3ドルで泊まれるホテルのドミトリーに紛れ込んだ。オーナーはVUさんという少しお腹が出っ張ったおっちゃんで、ベトナムの祝日には、国旗をかかげないという程度に反国家的なおっちゃんであった。

そのほうれん荘で、フォトジャーナリストの村山さんと出会う。

つづく

2章 バックパッカー 2004年8月 汽車の中

4人掛けでボックス席だった。窓際の席に座った。どうも、貨物輸送の会社の社員旅行の中に紛れ込んだらしい。自分の右前のおっちゃんが船長らしく、台湾、韓国、日本にカーゴ(輸送コンテナ)を運ぶ仕事をしている。自分の目の前、つまり船長の隣に座っているのが、船長の息子で中学生くらい。右隣には、船長の会社の社員の息子らしく、産婦人科を勉強する大学生とのこと。
ダナンまで15時間かかる。このメンバーで何を話せばいいんだ。

自分が日本人であるということがわかると、船長の息子が話しかけてきた。
日本のゲームはすごい。僕は将来ファイナルファンタジーのようなゲームをつくりたい。
あなたは、ティファとエアリスどっちが好き?
というような、ゲームの話ばかり。
海の男の船長が哀愁漂う目をしている。
(せっ船長。わかるよ。船長の気持ち。。。)

汽車の中では、お弁当が配られる。これもチケット代の中に含まれていたので、助かった。
ただし、基本は、白ご飯と漬物程度のみで、もっと欲しい場合は、別途、おかずを購入しなければならない。自分が白ご飯と漬物をもそもそ食べていると、船長が、そんなもんじゃ腹が膨れねえだろう。とばかりに、揚げ春巻きや肉類を購入して、自分の弁当に入れてくれた。

朝ごはんは、インスタントラーメンが配られて、汽車の中でお湯を注いで食べる。
すると、社員の人たちが、インスタントラーメンを食べないのでと、みんなでインスタントラーメンを自分にくれた。その上、駅で停車するたびに、物売りの人がやって来て、その度に、おばちゃん達が果物だったり、豚肉を葉っぱでまいた保存食を買って、自分にわけてくれた。

途中、ハイヴァン峠、ハイヴァントンネルに差し掛かったときに、船長が言った。
「このトンネルは日本がつくったんだ。それまで2時間かかっていたのが、30分で峠を越えることができるようになったんだ。」

日本のODAって現地でぜんぜん役に立っていないってイメージを持っていたし、また、アジアの中で日本は憎まれているというイメージを持っていたのだけれど、ぜんぜん、そんなことがなくて吃驚した。

だまされたのもベトナム人なら、助けられたのもベトナム人。この国がだんだん、好きになってきた。

つづく

2章 バックパッカー 2004年8月 

ホテルでの労働は楽しかった。ベトナム人の従業員の子達と仲良くなった。
屋上には、洗濯干し場と筋トレマシーンがあって、そこで、仕事の合間に話していた。

ある日、夜に20を少し越えたくらいのホテルで働く青年が、
「10ドルくれ。」と言う。
「なんで?」
「私は、お金がないので、服も変えないし、バイクも買えないし、結婚もできない。だから、10ドルくれ」と言うのである。
それを、聞いてものすごく悲しくなって来て、泣けてきた。
「泣かないでくれ。」と言って、青年は立ち去った。

ダナンに向かう当日、ホテルのおっちゃんが駅まで送ってくれるというので、待っていた。
しかし、おっちゃんは、時間がぎりぎりになっても、まだ、友人と酒を呑んでいる。
もし、これに乗り遅れたら、今度こそ、日本に帰れない。必死の想いで、おっちゃんに訴えかけ、
なんとか、バイクに2人乗りして、駅まで送ってもらった。
本当に、この場所でいいのか、もし間違ってたらと不安になりながら、汽車に乗り込んだ。
さよなら、ハノイ。

つづく。



2章 バックパッカー 2004年8月 

3日目、少し慣れてきたと思い、少しづつホテルから10m以上離れ、
ガイドブック片手に、警戒しつつも観光地を歩いていった。
そして、フレンドリーに近づいて着たバイクタクシーのおっちゃんと出会う。

・・・
その日は、ホテルの部屋で一人泣いた。

次の日、少し冷静さを取り戻し、とにかく、計算してみると、
残り20日あまりで、所持金が2万円。
1日1000円しか使えない。ホテル代込みで。
幸い、ハノイ、ダナン、ホーチミン市の汽車のチケットは事前に入手していたし、
ホーチミン市から帰りの航空券は持っていたので、とにかく、ホーチミン市まで辿り着けば、日本に帰れる。

ユースホテルの腹の出たオーナーのおっちゃんと交渉する。
「お金がないので、ホテル代をまけてほしい。」
「ダメだ!」
「!?」
「しかし、従業員といっしょにご飯を食べてもいい。」
「!!!」(マジか!)
「じゃ、その代わりに働きます。」
と、ハノイで滞在している間、飯を食べさせてもらう代わりに、ユースホテルで、ベトナム人の従業員といっしょに洗濯やベットメイクをすることになった。

つづく。

2章 バックパッカー 2004年8月 

ハノイに1週間、ダナンに3日間、ホーチミン市に1週間の旅を計画。
ちゃっかり、台湾経由でベトナムに行くことにした。

台湾では、蛍という安いホテルに泊まった。そこでは、日本語を話せる台湾人の名物おばあさんが居た。
靴は黒いのにしなさい。白いのは、汚れたら目立つ。
大学生なら、大学生を卒業した子と結婚しなさい。
食べる。寝る。いつもいっしょだから。同じ考えの人がいい。
など、ばあちゃんこだわりの人生観を諭してもらった。

そして、ハノイに到着。
暑い。飛行機のタラップを降りた時に思った。

台湾では、漢字だったので、なんとか意味がわかったけれど、ベトナムは、アルファベット表記で、意味が全くわからないので、急に不安になった。

空港から出ると、タクシーの運ちゃんにひっぱられ。よくわからんままに、白タクに乗せられる。
なぜか、途中で止まって。
「ティケット、ティケット!」と運ちゃんが叫ぶ。
「????」意味がわからない。
なんかよくわからないまま、やりとりしていると。
どうも「TICKET」と言っているらしい。
「ああ、チケットか。」とようやくわかり、どうも、空港を出るのに、チケットがいるらしく。
チケット代を払えという意味らしい。途中、もう降りる!と激怒したり、運ちゃんともめながら、
値段の相場がわからないまま。ぼったくられるに、ぼったくられ。ユースホテルにようやく到着。
「こえー。ベトナム、こえー。」

3日間は、ホテルの半径10m以上は動かなかった。
そして、運命の日。所持金7万円のうちの5万円をハノイ到着3日目に失うことになる。
つづく。

1章 途上国に行った理由 西村先生の指導 2004年2月

「西村先生、大阪から船に乗って、中国に行き、南下してベトナムに入って、カンボジア、タイ、スリランカ、インドに行って、日本に戻ってくる計画です。」
途上国の研究をされている西村教子先生の教授部屋を訪ね、相談に行きました。

西村先生は、たぶん、さて、この馬鹿者にどのように説明しようかと、呆れながら考えていたんだと思います。そして、次に出た言葉が。

「無理、お前、死ぬ。」だった。

「え!?」と、全く理解していない私。

「どうやって、イミグレーション通るの?」
「え、イミグレーションって何ですか?」
「・・・英語使えるの?」
「じぇっ、ジェスチャーで。」

「無理、お前、死ぬ!」
ともう一度、突き放された。

「じゃあ、どうすればいいんですか?」

西村先生は、馬券の山を当てるように、東アジアの地図を見て、
「ベトナムにしとき。」
「ベトナム?」
「ベトナムのハノイから、ホーチミン市の縦断する旅にしとき。」

そうして、初めての海外旅行がベトナムに決まった。

つづく。



1章 途上国に行った理由 及川先生の合同ゼミ~2003年

「しおじい。成人式なんか、行ってたら大物になれないぞ。」

及川先生のそのひとことで、成人式をさぼって、京都大学生と、鳥取環境大学生との合同ゼミに参加することになった。

「水戦争の世紀」という本に書かれた世界観は、財政難の中、公の水道施設も民営化し、また、企業は水源を確保し、水を商品として販売し、業績を伸ばしている。そういった状況で、水の足りない途上国などでは、金持ちは、水を購入できるが、貧乏人は水を入手できなくなっているというのである。

水は権利なのか、はたして、ニーズ(商品)なのか?
京大の法学部の人達は、ちゃんと資料も準備して来ていて、財産権に入れるべきなのかや、アフリカのどこどこの国では、憲法で水は、生命権だか、人権だかと明記されている。というような、論理を展開する。
しかし、我ら環境大学のメンバーは、水は大切なんはわかるけれど、公共の施設も財政難なんやし、民営化するしか仕方がないんとちゃうやろうかとか、仕方がないんとちゃうかなあ。とか、農村に行けば、川から水を汲んできたり、井戸水があったり、何かしらの水を入手する方法があるのではないかなど、そんな感じだった。法律を学んでいる方に失礼になるかもしれないけれど、憲法に水は命の源で、人間の生存に関わる基本的人権だ。と書かれることが、どれほど、重要なことなのか、そのときは、わからなかった。
それに、水戦争の世紀に書かれている途上国で起こっている問題が、
水資源の豊富な日本で、また、海外に行ったこともない自分にとって、ピンと来なかった。
それで、「いっぺん行ってみんとわからんなあ。」と思い立った。

つづく

2014年6月19日木曜日

今までの総集編をエッセー風にまとめる。

今までの記録をエッセー風に少しづつまとめていこうと思います。
いったん、まとめておいて、冊子にでもしておけば、0から説明するよりも、いいと思うので。

1章 途上国に行った理由 2003年 ・及川先生の合同ゼミ 水戦争の世紀 ・西村先生の指導  2章 バックパッカーでのこと 2004年 ハノイ ベトナム人にだまされる。5万円を失う。残り2万円。1日1000円で生きる。 ホテルで働く。 汽車で船長に会う。ハイヴァン峠。親日的なベトナム人。 ホーチミン市 バックパッカー街。ほうれんそう。1日3ドルのドミトリー。 カンボジアへ。ハッピーピザ。 台湾へ。ボブと出会う。ボブのうちに泊めてもらう。 青年洋上大学。中国。天津。北京。蘇州。 3章 ベトナムのNPO時代 2005年ー2010年 ・チュンさんとの出会い。 ・ベトナム語の勉強。 ・NPOの許可を取得。 ・オーケーと言ったが、サインはしていない。 ・あたりやに会う。 ・鶏を盗まれる。 4章 一人畑を耕していたとき 2010年 ・ピタゴーピタゴー。 ・セメントの捏ね方。 ・ひよこを飼う。ひよこが死ぬ。 5章 NICONICOYASAI設立 2011年- ・野菜はできた。 ・カナダからのメール。 ・イベント。やさいの会。 ・野菜ができても、お客さんのところまで届けることができない。 ・自分で宅配をやる。 ・結核にかかる。 ・ファミリーマート ・いろんな人に助けられる。

とりあえず。見出しだけ書いた。
少しづつ書いていこう。


2012年5月22日火曜日

そうめん流しの会×やさいの会

‎[ イベントです ] 流しそうめんの季節がやってきました!6月10日のやさいの会は流しそうめん×バンメトート野菜のてんぷら[一部お楽しみ変わり揚げ]です!ぜひ ご参加ください。

第7回 や さ い を 食 べ る 会
2012年6月10日(日)
(1部)10:30~13:30、(2部)15:00~18:00

【参加費】
 300,000VND(材料費などすべて含みます。)
 参加費は、当日受付にてお支払い下さい。
※大人1人につき6歳以下の子ども1人は無料、6歳以下の子ども2人目~と、6歳以上12歳まで半額の150,000VND。12歳以上は大人と同料金になります。
【持ち物】 
 エプロン、ハンドタオル、筆記用具

お申し込みはoverlandclub@gmail.com 富澤までどうぞ。

前回同様、流したいもの好きにご持参ください。また、浴衣も着てきてくださいね




2012年4月26日木曜日

共同農場


教会の福祉施設(貧しい子を預かり、小学校から高校を卒業するまで世話している。小中高の100人程度の子供達が共同生活している。)と共同農場を開きました。去年から、いっしょに農場が開けたらいいですよね。と言う話は有ったのですが、やっといい機会ができました。

興味津々の教会のシスター

子供達といっしょに開墾作業

福祉施設のメリットとして、
1)余った野菜は、子供達の食料にできる。(シスターは、子供に安全な野菜を食べさせたいとのこと。育ち盛りの子供が100人いるので、毎日の食事代がばかにならない。)
2)子供達の就労の場ができる。(普段、学校に行かない空いた時間は、新聞を売ったり、小物類をつくったり内職をしているそうです。)

私達としては、「農薬を使わない。」ということに対して、安心して共同できるのがとても大きいです。

2012年3月13日火曜日

無理はダメですね。

やっぱり、無理はダメですね。
とある方から、時間をかけてやることも大切。体を大切にしなさい!体を大切にしなさい!と励まされ、電話を閉じた後、しゃんと、元気になっている自分がいました。

病は気から、気も病からで、病気になると弱気になってダメですね。
今、だいぶ、元気になりました。前向きになりました。

無理をせず、自分らしく、快活にがんばろうと思います。
今回の病気からいろいろと教わりました、

2012年3月1日木曜日

やさいをお届けする形

やさいをお届けする形
収穫してから1日で、お客様のところまで届けるまでの流れ

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1)バンメトートで収穫・梱包します。

収穫します。
選別・水洗いします。
軽量します。
2)バンメトートのバスに載せます。(夜行バス)

梱包します。
丁寧に丁寧に。
最後は、バナナの葉を入れて、乾燥を防ぎます。

(バスで8時間)

3)ホーチミン市のバスステーションで荷物を受け取ります。(早朝)

   
小分け致します。そのときに鮮度チェックします。 梱包完了。

4)市内のお客様のところまでお運び致します。

 
5)開封します。

  
どうぞ、ご賞味ください。

※鮮度第一

やさいは鮮度が一番です。畑で取れたばかりの野菜は本当においしいです。

今は、夜行便でお送りするのが精一杯ですが、届きましたら、鮮度の良いうちにぜひお召し上がり下さい。

ルール・原則


NICO NICO YASAIルール

野菜を育てる原則
1)無農薬
2)無化学肥料
3)おいしい

野菜を届ける原則
1)時間と約束を守る。
2)野菜とお金がきちんと交換される。
3)記録を残して、勘違いがないようにする。

配達ルール
定期購入
1)毎週、野菜をお届け致します。
2)ストップの連絡を頂くまでは、自動更新となります。
3)ときどき、休まれるときは、休む日を事前にご連絡下さい。
4)1ヶ月以上休まれる際は、一旦、ストップし、また、再開の連絡を下さい。
5)お金は、毎回、お支払い下さい。そのときお支払いできなかったときは、次回まとめてお支払い下さい。

その都度購入
1)お支払いは、配達する人にお渡し下さい。
2)その際には、領収書にサインをしてお受取下さい。

配達に関すること
1)通常、午前中9時から12時の間にお届けします。午後3時-5時配達も可能ですが、鮮度のことを考えますと午前中の配達をおすすめ致します。
2)ホーチミン市市内のみの配達となります。
3)高速バスが事故などにより遅延する場合があります。その場合は、ご連絡致します。

会社案内

NICO NICO YASAI

 有限会社NICONICOYASAIは、無農薬、無化学肥料、おいしい野菜の3つを原則に安心して食べることのできる野菜つくりに勤めています。また、宅配サービスも自力で行い、生産から流通、販売まで一貫して行い、情報をOPENにしていきます。

沿革
2010
 7月から、無農薬、無化学肥料で栽培開始。(1000㎡)
 1010日、OVERLANDCLUBさんと協働で、第1回「無農薬野菜を食べる会」を開催。消費者と生産者との「顔と顔の見える関係」つくりのイベント。その後、3ヶ月に1度のペースで定期的に開催している。
2011
 5月、スタッフをそろえて農地拡大。(2000㎡)
 6月からビナBOOさんと協働で宅配サービスを試験的に開始しました。
 105000㎡に農地拡大。ビニルハウスでのトマトの栽培開始。
 12月に正式に会社のライセンスをもらいました。
2012
1月から自力で宅配サービスを開始しました。
3月からオンラインショップを開設しました。

お問い合わせ先
販売責任者 Uyen (ウインさん)(日本語可)
電話番号:0168-932-8008
E-mail    : rainbow221287@yahoo.co.jp

緊急時の連絡先:塩川
電話番号:0166-776-4706
E-mail    : circlink@gmail.com
(業務進行上、通常は、Uyenさんにご連絡をお願いします。どうしても、Uyenさんが対応し切れない時、もしくは、緊急時につきまして、私の方にご連絡頂ければと思います。)

オンラインショップからご注文下さい。